行慶寺参道の左右は大正時代まで畑地でした。ここは「除き地」として幕府から年貢を免除され、お寺の経済を支えてきました。
江戸中期には江戸城下の人口も増え、戸越も近郊農村として野菜などの換金作物を生産するようになりました。
とくに寛文九年(一六六九)品川用水が引かれ灌漑に利用されるようになってから、瓜、ネギ、大根などが栽培されるようになりました。
江戸後期、戸越には中延、小山とともに竹林が作られ、「戸越の筍」と呼ばれて、「大井人参」と同じように、タケノコがこの地区の特産品となっていました。
タケノコ この筍は古川古松軒著「四神地名録」によると、寛政元年(一七八九)に江戸鉄砲洲の住民幕府御用廻漕問屋の山路治郎兵衛勝孝が戸越の石井紋左衛門と協力し、郷里の薩摩から種竹をとり寄せて栽培し、付近の農家に奨励したことに始まるといいます。小山一丁目(旧戸越村)には筍発祥の地の碑があります。