江戸に幕府が開かれて間もなくの寛永十一年、幕府より戸越の現在地に土地を賜り、寺号も「八幡山成就院行慶寺」と号するようになりました。
約三十年後の寛文二年、戸越に細川越中守の抱屋敷がつくられました。
この抱屋敷は、現在の戸越公園・戸越小学校・文部省資料館を含む広大なものでした。
戸越一丁目にも旗本や大名の下屋敷がいくつかでき、戸越村の中心は旧東戸越に移ってきました。
これにともない、村人や武士の信仰の中心として行慶寺に参詣する人も増え、また当時の「一村一ヶ寺」制度の下で幕府の保護も受け、本堂・庫裡・観音堂と次第に伽藍(がらん)を整えていきました。
墓地内にもこの当時(寛永年間)の石仏や石碑が見られます。
資料館の東側を通り、八幡坂から四ツ塚に抜ける道は、当時からの古道でもあります。